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武道の文化の破壊によって日本企業の強さが失われた

日本には古来より、武道に親しむことによって己の精神性を鍛える文化があった。
武道の稽古はいつも自分の精神を磨くためであり、現代スポーツのように、誰かと競争して勝つことに主眼を置かれてはいなかった。

武道の存在なのか、武士道への理解が文化としてあったためなのか、様々な複合要因はあったと思うが、日本社会はとても精神性が高く、それが国としての強さとなっていたように思う。

下の者は上の者を敬い、上の者は下の者への敬意を忘れなかった。
上に立つ者は上に立つ者が有すべき帝王学を大切にし、権力を手にするが故の自制心を上の者が暴走しても、下の者は命を懸けて上の者へ物申すことで、世の乱れに対する自助作用がある程度あったように思う。

もちろん、そのような状態でなかったこともあっただろう。
自国の文化を美化しすぎるつもりはない。

だが、戦後の焼け野原を立て直した世代にはまだ、戦前の精神が残っていたからだと思うが、戦前の精神文化や教育を受けた人たちを見ていると、武士道精神が残っているように感じる。
一方で、戦後生まれ以降の人々は、戦後の自虐史観教育を受け、一般には武道が禁止された時代しか経験していないためか、武士道精神によって一本筋が通った人を見ることはほとんどない。

そのためか、戦後生まれの人の多くはまさに「今だけ、金だけ、自分だけ」の人が多く、上の立場になったら私利私欲のためだけに権力を使い、自己顕示欲を満たすために下の者を蹴落とすのも厭わないというありさまだ。
下の者は下の者で、長いものに巻かれるばかりで、上の者の不正を皆で黙認する。異議を申す者が現れても、野次馬のように見物するだけだ。

こんな状況では、社会も組織も自浄作用がなくなるのも当然だ。
戦後、GHQによって武道が禁止され、その後解禁されたものの、その時にはもう時は既に遅かったのだろう。
人々は人と競い合ってすぐに結果の出るスポーツにばかり精を出すようになった。

日本の武道の中心の剣道は、西洋スポーツの権化のようなものとなり、武士道精神のかけらもなくなってしまったように思う。
つまり、主な武道をたしなんでも、殆どは他人との競い合いによる勝ち負けを求めるものになってしまうという始末だ。

これがいわゆる、GHQの占領政策の呪いなのか、単に日本人が捨ててしまった精神性なのか。
日本人が武士道を取り戻したければ、自らの意思で取り戻せるはずである。
筆者はそれを切に願うばかりなのである。

今日も筆者の会社で上の者同士が責任の擦り付け合いを行い、その醜い争いを普通の顔をしてみている下の者たちがいるという風景を見て、ため息が出る今日この頃である。

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