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目くそ鼻くそを笑うシリーズ:中国のバレーボール選手がマスクをして試合をしていたことを批判する日本人

先日、フィリピンで行われている女子バレーボールの大会で中国の選手が試合中も機密性の高いマスクをしたままで試合をしたことについて、「大変危険な行為である」との批判が相次いだことによって中国のバレーボール協会が謝罪発表をしたというニュースが流れた。普段は中国の事については一切批判せず、どんなに批判するに値するような内容を報道する日本の大手メディアでさえ、今回の中国のバレーボール協会の行為を批判した。

大手メディアが批判したためであろうか、「バレーボールの大会で機密性のマスクをしたままで協議をさせた」ことについて、批判する意見はあれど、称賛するような意見がなかったことが筆者には非常に印象的であった。それ以上に、同行為について、「なんて危険な行為をさせているんだ」という批判が日本人からも多く寄せられている様子を見て、筆者は恐怖を感じた。

筆者は定期的に近所の武道場で合気道をしている。合気道は比較的、激しめの有酸素運動に相当する武道である。真冬でも室内で一時間も稽古すれば、全身汗だくになるほどの激しいものである。その道場では、この猛暑の夏の間も一貫して「稽古中を含めたマスクの着用の義務付け」がなされている。想像してみてほしい、10分も体を動かせば全身汗だくになるような運動を1時間もしているにも関わらず、ずっとマスク着用が義務付けられているのだ。激しい有酸素運動であるため、稽古が始まれば、早ければ5分も立たないうちに息切れして、はぁはぁぜぃぜぃと激しく呼吸をするのだ。にもかかわらず、完全マスク着用なのだ。このような危険なことをしているにも関わらず、一向にマスクを外すことについて検討されない。中には、指導者にも関わらず、「俺は安全性を高めるために機密性の高いマスクを二重にして稽古しているんだ!」と吠えている者もいる。そんな彼のマスクはいつも大量の汗で大きすぎるシミができている。

マスクをしながらの運動が行われているのは他にもたくさんある。筆者の近所の小学校で行われている小学生による少年野球では、少年たちのほぼ全員がマスクを着用させられている。多くの保護者が近くで見守っているが、運動による怪我以前に、マスクによる呼吸困難などの心配は抱かないのであろうかと筆者には不思議でならない。

先日、真夏の猛暑の中で京都を訪れたが、38度という気温に約90%の湿度という、サウナ顔負けの気温にも関わらず、筆者以外の歩行者の99%は完全マスク着用で過ごしていた。マスクをしていない筆者でさえ、暑さと湿度で熱中症になりそうな状態であったにも関わらず、ほぼ誰もマスクを外していない光景に恐怖を感じた。このような人たちがどうして中国のバレーボール協会の事を批判できるのだろうか。正に、「目くそを笑う鼻くそ、自身の不潔さに気付かず」といった様相であった。

普通の感覚からすれば、熱中症で多くの者が倒れている中で完全マスク着用を続けることと、バレーボールの試合という激しい運動をする中で冷房完備ではあるものの完全マスク着用を続けることの、どちらが危険性が高いだろうか。比較する価値があるのだろうか。中国バレーボールを批判できないほど、日本人も酷い状況になっているという意見が何故出てこないのだろうか。日本人は、その程度の冷静な判断さえ、なくしてしまったのだろうか。

冷静な判断力をなくしてしまったのか、一度決めた結論をプライドによって何が何でも変えたくないという信念に燃えているのか、筆者にはもうわからなくなってしまった。こんな状態では、大多数の日本人は国民全体として簡単にカルト宗教(=岸田政権)を信じてしまうという恐ろしさを感じたのである。

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目くそ鼻くそを笑うシリーズ:開講のお知らせ

人は皆、自分は他人より優れていると思いたがる。自分はいつも、「平均よりは上である」と思いたがる。自動車を運転するドライバーに「あなたは平均的なドライバーよりも運転が上手い方だと思いますか?」というアンケートを取ると必ず、7割以上の人が「はい」と答える。通常、平均点あたりの人はたくさん集中していて、それよりも上、つまり、「平均点より上」の人は2割か3割しかいないはずだが、その2割か3割に入っていると思っている人が、なんと7割もいるという結果を表している。

人間は物事を見るときに必ず自分に都合の良いフィルターを通してみる。例えば、自分を含めて批判されていたとしても、自分は批判の対象ではないと思ったりする。「公道を歩くときにマナーの悪い人が増えた」と言われると、「自分はマナーの悪い人の中には入らない」と頭の中で処理した上で「(自分は入らないが)マナーの悪い人が増えた!けしからん!」と思うわけだ。そして、恐ろしいことに、具体的に批判されていることを自分がしてしまっているにも関わらず、殆どの人が棚にあげてしまうのだ。

こういう話をすると、ざっくり分けて年配の人は「昔は皆、礼儀正しかった!最近の若者はなってない!」と言い、若い層の人は「昔話ばかりして、年寄りは鬱陶しい。昔は良かったかどうか知らないが、あなたたちは今、全く礼儀正しくないではないか!」という。筆者は両方の立場を同時に体験したことがないのでわからないが、ほぼ確実に皆、自分たちの事は美化して評価しているに違いない。つまり、年配の人は自分たちの価値を美化して若い人たちにマウンティングをして若い人たちを馬鹿にしている。一方で若い人たちは年配の人たちの年寄り臭い説教を聞きたくない。要は、「どっちもどっち」なのだ。

そして人は他人を馬鹿にして優越感を感じて満足する。そうして目の前にある問題に目をつむる。臭いものには蓋をし、においを隠す香水を振りまいて、自分がいかに臭くなっても、既に気付かないほど鈍感になっている。そういった自戒の念を込めて、先日、「目くそが鼻くそを笑える時代が来た」という記事を書いたが、これがなかなか一部で好評だったようだ。

大手メディアは世の中の本質的な問題を提起して改善を促すということはせず、「目くそが鼻くそを笑う対立構造」を作って、われわれから世の中の本当の問題を隠蔽する。そのような危険性を面白おかしく指摘するシリーズとして、「目くそ鼻くそを笑うシリーズ」を初めていきたいと思う。そのような見方をすることで、社会の問題を振り返る目をつけ、自らの行動を正す人が増えることを願っている。人間の基本は「人の振り見て我が振り直せ」なのだ。

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物理数学シリーズ③:専門家ってどんな人たち?

専門家というのはどういう印象を持つだろうか。日本においては、専門家と言われる肩書の人に対する信頼度が信じられないほどに高い。医学博士、国際政治学者、評論家、大学教授、などなど。それらの者がたとえどんなにいい加減な研究をしていようが、どんなに酷い嘘つきでも、立派な大学を出て、立派な肩書を持っていると、途端に信頼でいる専門家のように見える。

筆者は大学、大学院と理系に進み、専門分野の研究室に3年間所属した。その後、「金融経済研究所」とか「金融研究センター」と言われるような、いわゆる金融業界における、いわゆる「金融経済の専門家」達が集う研究所に5年以上在籍した。その中には、日本や海外の超有名な大学や大学院を卒業し、何年、何十年と研究所所属の人たちに囲まれてきた。その経験から、世間で専門家と言われる人たちの多くが、如何に信用が置けないかという姿を現実として見てきた。

どの分野においても、学問の基礎中の基礎というものがある。一般人からすれば、「有名大学を卒業しているのだから、基礎中の基礎は当然に身に付けた上で、とても難解な専門知識を身に付けているのが専門家」だと思ってしまうものだが、恐ろしいことに専門家のほとんどは「基礎中の基礎」について全くの無知なのである。それだけではなく、自分が専門とする分野の局所的な部分にだけ焦点を当てて物事を見るので、とんでもない曲解をして本質を見落とすことが多い。にもかかわらず、人一倍、いや、人万倍プライドが高いため、自分の欠点、見落とし、ミス、誤りなどについては決して認めない。

これがどのようなものか、簡単な例えを用いて説明しよう。公道の車の法定速度を考える際に、広くて視界の良い道路を走る場合と、狭くて視界の悪い道を走る場合、細くて急カーブの多い道を走る場合、歩行者が全くいない道路を走る場合、歩行者が多い道路を走る場合など、どのような道路を走るかによって、制限速度の考え方は変わる。その上、濡れた道路や、路面が凍った道を走ると滑りやすいことを考慮しなければならない場合は、さらに制限速度を考えるときに考慮しなければならない。

この場合、専門家とは例えば、「直線道路の安全性しか知らない直線走行の専門家」、「カーブ走行の事しか知らない専門家」、「急カーブの限界を追求する専門家」などの専門家が一般的なのである。決して、「ありとあらゆる道路コースの形状、路面の状況、見通し状況などを総合的に理解した専門家」というのは、ほぼ皆無なのである。日頃、公道を走っている者であれば専門家でなくても、「たとえ法定速度内であっても路面が凍っていて霧が出ていて見通しが悪い時は危険で、なおかつ細くて曲がりくねった道は相当速度を落とす必要がある」ということがわかるかと思うが、専門家というのは「私は直線距離の研究を何十年もしてきたから、大丈夫なんだ!」とか、「たとえ路面が悪くても30キロ以上減速する必要はないんだ!」とか、平気でおかしなことを主張しだしたりする。そうしたときに、如何に専門家は自分の狭い狭い専門分野の事しか知らず、基本中の基本さえ知らないで研究だけしていることが明らかになったりする。

しかも、始末の悪いことに、彼らの盲点や論理的欠陥について指摘すると、必ず彼らは「キレる」のだ。冗談抜きで、彼らは論理的に自分の考えを見直すことなく、とにかく「キレる」のだ。専門家という名のつく者たちのほとんど全ての者は、自分の狭い狭い専門分野における、いわゆる「お山の大将」であり、砂上の楼閣の「お山の大将」であり、自分が如何に偉いかを示すことに必死であり、「お山」から転げ落ちることを何よりも恐れている。

なので、当然、金を積まれれば、どんな主張でもし始める。新型コロナの騒動で、如何に医療関係者が適当なことを言い始めたことを振り返ってもらえればよく理解できるかと思う。彼らにとって、真実を追求することは全く重要ではなく、如何に自分が「お山の大将」で居続けられるかが重要なのである。

そしてこれも筆者が研究所における専門家に囲まれて10年近くを過ごして実感したのだが、「ほとんど全ての専門家は自分の理論に少しでも欠陥がある」と指摘する者が現れると、全てのエネルギーを注いで個人攻撃を始める。パワハラやセクハラが横行するノルマ主義の営業部門さえ、血の気が引くレベルの人格否定の個人攻撃を執拗なまでに行ってくる。ちなみに、この執拗さに男女差は関係ない。例え攻撃対象が男性であろうが、女性であろうが、関係なく、男性であろうが、女性であろうが、なりふり構わず攻撃する。嫉妬と憎しみなど、人間の強欲の塊が研究所なのだ。

あなたが何か、大切な決断をするときに専門家の意見を聞こうと思った場合には、慎重に慎重に専門家を選ぶことをお勧めしたい。

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統一教会の成り立ちと金の流れを見ることで見えてくること

連日、統一教会の組織を叩き続けている。特にテレビが統一教会への攻撃の手をやめていない。しかも、これまでテレビが統一教会とズブズブであったにも関わらず、それでもなお、統一教会を叩く必要があった。つまり、メディアには統一教会を叩き続け、安倍晋三元首相の暗殺が山上徹也の単独犯であることに断定し、山上徹也の異常性に注目することで暗殺事件の真相を追求しないための強烈な印象付けをしているようにしか思えない。

筆者はこれまで、単に執拗に統一教会にこだわるのはオウム真理教を叩き続けたのと同じ発想で「統一教会のカルト性が安倍晋三を暗殺するという山上徹也という単独犯を生み出すに至った」という印象操作をマスコミが必死にしていると思っていた。だが、この統一教会という組織が誰によってどのような目的で作られたのかを調べてみると、驚くべき事実がわかった。そして、様々な組織や人物との驚くべき関係性が浮かび上がってきた。それについて詳細に解説したいので、ご興味がある方は、下記のURLから読み進めていただければ幸いである。

https://note.com/kagadazugudu/n/ncd0842dc2362

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フェイクメディアが統一教会についてばかり執拗に報道していることにインテリジェンスを働かせてみる

筆者の記事をよく読んで頂いている読者であれば、何事に関しても「インテリジェンスの重要性」については誤認識いただけて頂いていることかと思う。テレビや新聞、雑誌、インターネット、SNSなど、様々な媒体から入ってくる情報をそのまま信用するのは愚か者であり、筆者は常々、「誰かが言うことをそのまま信じるのは馬鹿以外の何者でもない」というメッセージを発しており、インテリジェンスによって情報を精査して受け入れなければならない。

この世の中は嘘つきだらけであり、新聞やテレビの報道のほとんど全ては嘘ばかりである。いつも従順な心で新聞やテレビを見ている方には、新聞やテレビが嘘だらけであることは信じられないかもしれないが、一つでも決定的な嘘に直面すれば一度に見方が変わる。それは、今まで信じていた恋人や配偶者が実は自分を騙して浮気をしていた決定的な証拠に直面してしまった時に似ているかもしれない。

さて、現在、メディアが執拗に統一教会について報道していることに目を向けてみよう。先日、統一教会を責め続けることは、パンドラの箱を開けてしまったが故に、暴かれたくないことを隠すために統一教会の異常性を報道し続けるのだと指摘した。

だが、それでは説明がつかないほど、メディアは統一教会そのものを批判し続けている。

メディアの報道の仕方を見ている限り、執拗に批判し続けるには必ずわけがある。そのように考えるのがインテリジェンスなのである。そのように考えると、メディアは何かまだ隠したいことがあるに違いないと考えるのが自然だと考えるのが素直である。

つまり、統一教会は批判し続ける方が良い。批判し続ける方が良いのだが、批判する内容は信仰のカルト性に留める。これが現在のメディアのスタンスである。

統一教会は政治やマスコミにズブズブの関係であったために、現在は様々な反撃にあっているのだが、それにも関わらずマスコミは攻撃の手をやめていない。つまり、新聞やテレビなどのマスコミには統一教会を叩き続ける必要性があると考えるのがインテリジェンス的には素直なのだ。そのような視点で、統一教会の中身についてみてみると、とんでもないことが見えてきた。そのことについては、次回、詳しく述べたいと思う。

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夫婦別姓という日本文化破壊工作に対抗しよう

グローバリストや共産主義者のような者たちはいつも、一見良さそうに見える改革の必要性を訴えてくる。だが、その中身を冷静に見ると、どの改革も文化や伝統を破壊して国家を破壊してグローバル世界統一共産主義社会に導こうとするものばかりだ。外国人参政権、ベーシックインカムなどが正にそれであり、「夫婦別姓」も国家破壊工作の一つなのだ。

婚姻関係になる男女は現在のルールでは男性の姓を共に名乗るか、女性の姓を共に名乗るかのどちらかを選ぶという制度になっている(民法750条)。殆どの夫婦は男性の姓を名乗っており、これはつまり女性が男性の家に入ることを意味する。

夫婦ともに男性側の家に入るということは、夫婦の間に生まれてくる子供は男性の家の元に入ることを意味する。家制度をどのように決めるのかというのは本来、最も良い方法があるわけではないが、世界でも日本でも用いられてきたルールを崩すと、様々な不具合や混乱、争いが生じるのだ。

夫婦別姓というのは、男女が婚姻関係を結んで夫婦になった時に別々の姓を名乗ることを選択できるという制度だ。一見自由に選択できる制度であり、「単に選択肢が増えるだけではないか」と考える者や、「男性の家に半強制的に入れられるのは男女差別であり、女性が自分の姓を変えずにいられる権利を手に入れられるのだ」と主張して男女差別を武器にする者もいる。

だが、それは夫婦別姓の小さな問題にしか焦点を当てていない。そう、夫婦別姓を採用することで生じる一番の問題は「子供が生まれたときに、その子をどちらの姓を名乗らせるか」であり、男性側の家と女性側の家とで子供をめぐる骨肉の争いが生まれるのだ。そもそも、女性が自身の姓を残したいのであれば、女性の家に入ってくれる男性を選び、夫婦ともに女性の側の姓を名乗れば良いだけである。だが、安易に夫婦別姓を選ぶと、子供が生まれるたびに「どちらの家に子供を入れるか」という問題が発生するのだ。

共産主義者の常套文句は「分断して統治せよ」であり、分断構造を生むことによって対立を生じさせ、社会混乱を増やすことにある。夫婦同姓の現行制度でさえ、子供を奪い合う大人たちの争いは絶えない。そんな状況にも関わらず、夫婦別姓を導入して子供を奪い合う種をまくべきではないのだ。

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嘘や隠蔽は一度始めると更なる嘘や隠蔽をしなければならず、必ずバレてしまうという法則

子供の頃、小さなが小さなを呼び、前についたを隠すためにさらにをつき、がどんどん大きくなり、隠し通せなくなったという経験をしたことは誰でもあるだろう。例えば宿題をやってないのにやったとをつく。部屋の片づけをしていないのにしたと嘘をつく。嘘の種類は何でも良いが、いつまでも嘘をつき続けるのはとても難しいことを子供の時に学ぶものだ。そして大抵、「こんなことなら、嘘なんかつかなければよかった」と学ぶものだ。

嘘には様々な嘘があり、人を幸せにする嘘もあれば、あらゆる破滅を生む嘘もある。たとえ嘘を突き通せたとしても、嘘をつき続けることで信用を失うこともあるだろう。そして、嘘がバレたときの信用失墜は取り返せないものであったりするのだ。

今の世の中は本当に嘘が増えたと感じる。筆者が若い頃は今よりも世間知らずであったために、いろんな嘘に気付かなかったから、そういう印象を持ってしまっているのかもしれない。しかし、例えば医療分野についても、様々な嘘や隠蔽を繰り返すために、様々なことについて「おかしい」と思う人が増えても、更なる嘘をつき続けなければならないために、嘘の規模が増大し続けていることは確実なように思う。

2020年頃から始まった新型コロナウイルス騒動にまつわる嘘は正にその象徴であるように思う。ウイルス性疾患がワクチンなどでは予防できないことなど常識であったにも関わらず、過去のワクチンのデータを隠蔽し、さらに新型コロナワクチンのデータを大幅に隠蔽して「有効性95%!ワクチンに被害者はない!ワクチンで死亡するなど、あり得ない!」というところからスタートして、徐々に徐々にその実態が明らかになっていった。

国家が薬害を隠蔽するときの例に漏れず、あらゆる被害報告がなされても、未だに我が国はそれを一方的に認めていない。ワクチンに関する訴訟が国家賠償責任の追及が明らかに予想されたため、我が国の政府や行政はありとあらゆる手段でもって、ワクチンの被害に対する責任を負わない準備を整えていた。

今、世界中で様々な嘘が指摘されている。巨大企業が儲けるためだけに仕組まれたものや、軍産複合体が儲けるためだけに作られた戦争など、挙げればきりがない。環境問題についても、嘘に嘘を塗り固められていて、それがどのような形で爆発するかを筆者は観察している。環境問題なども含め、一般人の大多数が嘘に気付いて抵抗しなければ、われわれの生活は破壊されてしまう。それゆえに筆者は非力ながら、こうやって日々記事を書いている。

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ゼロベースで物事を考えることの難しさ

ビジネスの世界などを中心に「ゼロベースで物事を考えることが大切である」という言葉をよく聞く。これの意味は、「従来の先入観を持って物事を考えると新しい発想が生まれないよ」という意味でつかわれる。なるほど、なんとも前向きな話だ。「先入観を捨ててイノベーションを起こそう!」という、とても前向きでポジティブの人の発想そのものだ。

だが、筆者はそれ以上に「ゼロベースで考えることの大切さ」は、「本当に正しいことから目を向けること」にあるように思う。

人は大抵、「自分が正しい」と思っている。どんなに謙遜している人でも、心の奥底では「自分は正しい」と思っている。道を歩いていて、自分の通行の妨げになっている人がいるような人がいると、大抵は相手が悪いと考える(本当に悪い場合もあるが)。子供の教育などは正に「自分が正しい」と思うことが強く出る。子供が勉強していたり遊んでいると、何かを諭そうとしたりするが、その深層心理には「自分が正しく、子供が間違っているので正すべきである」という発想がある。

もし「ゼロベースで考える」ならば、常に「今まで自分が行ってきたことや考えてきたことは間違っていたかもしれないから、それを毎回問い直そう」と考えるはずだが、筆者はそのように考える人をほとんど見たことがない。

なぜか。

それは、ゼロベースで考えるたびに、自分の過去の誤りや過ちを認めることになるからだ。自分のそのような闇に向き合える人はほとんどいない。人は大抵、嘘つきで偽善者だ。たとえ過去の自分の誤りや過ちに気付いても、大抵の人は臭いものにふたをするように、それらを隠したり忘れたりする。「自分は間違ってなかった」という小さなプライドを守るために、ゼロベースで考えることはしないのである。

筆者は過去に何度も自分が今まで考えてきたこと、やってきたことは間違っていたかもしれないという前提で叩き壊してきたことがあるが、それはとても精神的に辛い作業になる。自分には何もない、何の価値もないと思ってしまうような虚無感に襲われるのだ。

そのような自分の虚無感と向き合える精神的強さを身に付けないと、日常的に「ゼロベースで考える」ことは出来ない。そう、「ゼロベースで考える」には、それだけ自分が強くならねばならないのだ。

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終戦記念日が来るたびに思い出すこと:1945年8月15年に戦争は終わらなかったことについて

夏は暑い。夏の暑さが強いほど、戦争の時代を生き抜いてくださった方々、戦場に散っていった英霊たちの辛さはこんなものではなかったんだろうなと額に汗をしながら、頬を流れる汗に涙が混じりそうになる。

今年も8月15日を迎えた。今年も戦没者追悼式が天皇陛下をはじめとして行われたことから、やはり8月15日は「終戦記念日として受け入れよう」という気にはなる。

だが、1945年8月15日に何があり、それ以後、何があったかご存じだろうか?「終戦」というと、何を思い浮かべるだろうか?戦争を体験をしたことのない、われわれ世代にとって、終戦の日とは、その日で「戦争が終わった」と思ってしまうのではないだろうか。

本来、戦争というのは軍隊と軍隊が戦場で戦うため、「停戦」や「終戦」が宣言されれば、双方の軍隊は戦いをやめる。だが、第二次世界大戦において、日本は様々な国と戦争をすると同時に「虐殺」を受けてきたのだ。繰り返して言うが、「戦争というものは戦場において軍人同士が戦う」のであって、「軍人が戦場ではない場所で民間人を殺すことは単なる虐殺」なのである。第二次世界大戦の後半、日本はアメリカ軍によって東京大空襲などの都市への大空襲という「民間人を対象とした大虐殺」や、広島と長崎への核爆弾による「民間人を対象とした大虐殺」が行われてきた。そして、戦場において戦闘不能となった軍人も民間人扱いされるため、そのような民間人は戦争捕虜として敵国に送り返すのが戦争のルールだが、日本の軍人たちは戦闘不能になった途端にアメリカ軍を中心に大虐殺をされてきた。

そして、1945年8月15日には昭和天皇陛下による玉音放送によって終戦宣言が行われ、時を同じくして陸軍大臣の割腹自殺でもって全軍は世界に類を見ない形で日本軍は全軍、矛をおさめたのだ。当時、不平等な形で日本が降伏することを軍部が受け入れず、日本軍は世界各地で徹底抗戦を続けるのではないかと思われていたが、陛下による終戦宣言と軍部のトップの日本流の自決によって、日本軍は全軍一斉に攻撃の手をおさめたのだった。

だが、1945年8月15日以降、多くの日本人にとって地獄は終わらなかった。世界各地での日本人を対象にした略奪や虐殺の手が止まらなかったからだ。終戦宣言のため、一切抵抗ができなくなった日本軍に対して、各国の軍隊は攻撃の手を止めなかった。満州にいた民間人は命からがら日本へ死に物狂いで逃げ戻った。そして多くの軍人は戦争が終わって自宅に戻ったにも関わらず、シベリアに強制労働者として送り込まれた。これらは全て犯罪である。このようなことが1945年8月15日を過ぎても何年も行われていたにもかかわらず、この日を終戦記念日と言えるのだろうか。そして、各国は未だ、これらの犯罪行為について日本に謝罪していない。

かつて、軍人として戦った方から聞いた話がある。彼の友人は特攻隊として散っていったという。彼の友人の代わりに散るべきなのは自分だったとも言う。そんな彼がとても重い口を開けて、こう語ってくれた。

「あいつが命をささげて守り抜いてくれた日本という今の国は、あいつが命をかけるほどの価値がある国になったとは思えない」と。

われわれは先人の思いを引き継いで生きている。先人に顔向けできないような生き方をしてはならないと今年もお盆を迎えて改めて誓うのであった。

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目くそが鼻くそを笑える時代が来るとは目くそ鼻くそもびっくりな時代がやってきた!

目くそ鼻くそを笑う。目くそが鼻くそを笑っているのだろうか、鼻くそが目くそを笑っているのだろうか。鼻水と涙では、涙は美しいと思えることがあるので、目くその方が価値があるのではないだろうか、そんなことを考える方が価値があると思えるようなニュースが最近、大手メディアを賑わせている。

そう、政治権力にガッツリと食い込んだ統一教会vs創価学会の話だ。一般人からすれば、統一教会創価学会もカルト宗教である。「どちらの宗教になら入ってもいいですか?」なんて聞かれたら、本当に困る。「うんこ味のカレーか、カレー味のうんこか、食べるならどっち」問題と引けを取らない。

にもかかわらず、さすがは大手メディア。日頃からフェイクニュースを垂れ流すことに躊躇がない大手メディアは、一方的に統一教会を批判し、創価学会は政治権力として正しいことを前提にしている。まるで、目くそが鼻くそを必死で叩いているようにしか見えない。

普通の感覚を持った者なら、最近のメディア報道を見ていれば、「統一教会だけでなく、創価学会もだめだろう」という反応をするのが普通だと思うのだが、その意見を封殺するかのように、メディアは朝から晩まで統一教会を叩いている。

そもそもの経緯からすると、安倍晋三元首相の暗殺で浮上した山上容疑者が統一教会の関係者だからというところから端を発し、統一教会たたきをする流れとなった。

安倍晋三元首相が暗殺された原因となる、警備体制の問題や、複数犯の可能性、その他さまざまな問題をかき消すために統一教会たたきを盛り上げているようにしか筆者には見えない。ここで少し推測をしてみると、そもそも統一教会を叩いてしまったら、「そもそも政権与党にはカルト宗教の創価学会が政権与党に食い込んでいるだろう」という、ある種のパンドラの箱を開けてしまったのではないか。単細胞のマスコミは、「統一教会を激しくたたき続ければ、創価学会の問題は騒がれることがない!だって、大衆は馬鹿だから!」と考えたのではないだろうか。

本当にくだらなさ過ぎる「統一教会たたき」が連日繰り返されている。思い返せば、安倍晋三元首相が暗殺されて一か月半が経ったにも関わらず、統一教会たたきが止まらない。統一教会を叩いたら、あまりにも埃が出てきてしまって収拾がつかなくなり、叩き続けなければ問題の矛先を変える方法がわからず、仕方なしにたたき続けているプロレスのようにしか筆者には見えない。マスコミ様は馬鹿なわれわれにどのような結末を用意してくれるのか、馬鹿なりに楽しみにしようではないか。

こういうとき、本家本元のプロレスではどのように決着をつけるものなのだろうか?今度、友人知人にでも聞いてみることとしよう。

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